56歳の誕生日を健やかに迎え身体は数日前のダメージが残っていて若干愚鈍ではあるものの心はいつになく晴れやかな金子です。
今日は昼間にコンタクトという常に他者と触れ合うジャンルのクラスで馴染みのメンバーと屈託なく笑いながら楽しく心身と向き合い、夜のStylish Jazzdanceクラスにはいつもより沢山の新旧入り混じった顔ぶれが集い、これまた楽しく真摯に身体と表現に向き合いました。
このところ自分の表現方法や身体のコントロールについてどう説明するのが適しているのかずっと考えていましたが、どうやらこの一言に尽きる気がしています。
「瞬発力よりも持久力」
と提示しておいていきなり脱線しますが僕は高校の頃冬になると行われるマラソン大会が死ぬほど嫌いでした。運動音痴もさることながら酷い貧血を患っていたため数百メートル走っただけですぐに息切れしてしまい走り続けて完走なんて夢のまた夢。それでも許されないのが当時の教育方針でしたから毎回情けない思いでいっぱいになりながらノロノロと歩いてゴールしていました。後に病院で胃潰瘍による下血多量で死ぬ直前と判明し手厚い処置により一命を取り留めることになるのですが、根性論が先行する世の中では負け犬のレッテルを貼られても何も文句は言えない状態でしたから病気でさえ恥と思い込んで大学進学だけを希望に高校生活を半ば記憶喪失気味に終えました。
身体が見違えるように強くなったのは大学でバンカラな寮に入りダンス部なんてそれまで縁のなかった世界に身を投じてからです。人生で初めて盲信的に打ち込めるものと出会い気付けば30数年踊り続けているどころかそれを生業としています。つい先日も母に「あんなに身体弱かった貴方がこんなに逞しくなるなんてねぇ…」と言われました。
はい、軌道修正して本題へ戻ります。
そんな訳で「持久力」とか「継続は力なり」という言葉が大嫌いな青年が今では毎日丹念に続けることの大切さを説いて周るオジサンになりました。SNSで頻繁に流れてくる動画の中でこれでもかと瞬発系のスーパーテクニックを見せつける類のものは後を断ちませんが、そういうものには次第に目が向かなくなり太極拳に代表されるようなじんわりとしたムーブメントばかりに惹かれます。
コロナも終息し世界は俄かに騒がしくなって右を見ても左を見ても承認欲求の嵐。それは至極当然のことですし非難するつもりは毛頭ありませんが、溜まりに溜まった鬱憤を瞬発的に晴らすだけに見えるものに対しては少々刃を剥きたくなります。感情や思想はその場しのぎの性質が濃くなるとただのヒステリーに成り下がります。そんなヒステリックな感情をアートの一種であるダンスに持ち込むと抑揚もデリカシーも無い乱暴な言葉を叫び続ける下品なアジテーションのような有様になってしまいがちです。
かく言う僕も少なからず腑に落ちない事や社会への不満は抱いていますので、振付の中に忍ばせる事もよくあります。しかし、あからさまに分かりやすい表現ではなく一見何のことか分からないようにそっと織り交ぜ、全体の印象がネガティブな質感よりもポジティブなニュアンスが勝るように整えます。そこはかとないエロティシズムも大いに役立ちます。なんだかんだ綺麗事を言いつつも人間の根っこはエロで成り立っていますので緩やかに高揚した果ての歓喜の吐息は結局最強の武器ではないのかなと思うのです。
56歳になってようやく不惑という言葉がしっくり来ている実感もあります。少々遅すぎる到来だとは思いますが、これからも周回遅れでも良いから「知命」「耳順」「従心」と新たなドアを開けながら生きていければと願っています。